【1960年】問屋からメーカーへ転換した「第二の創業」
射出成形事業の開始
北川清之助は、大倉商業時代の学友である利倉駒次郎利昌工業社長から
射出成形事業の有望性を教えられ、利昌工業の関係会社である日光化成を紹介された。そこで1960年に旭ポリスライダーに勤務していた浜口勲をスカウトし、8月に本社筋向かいの借家に当社第1号設備である名機製作所の射出成形機H16を据え付け、日光化成の支援を得て、同社のコイルボビンなどの成形下請けを開始した。30年間営んできた問屋業から製造業への転換を図る「第二の創業」である。
翌年8月に大阪市東淀川区南江口3-2-30の土地925m2(約 280坪)を取得し、地元の工務店が廃材を使って建てた木造の工場で本格操業に入った。
しかしこの事業転換は、当初から変化する時代の洗礼を受けた。強烈な労働争議である。1959年の日米安保条約改定をめぐって保守・革新政党間の対立が激しくなるにつれ学生運動や労働争議が各地で頻発していた。60年末に政府が所得倍増計画を決定すると賃金引き上げ運動が加速され、共産党や総評が零細企業を対象とする合同労組結成に向けたオルグ活動を活発化、これに対して同盟会議も対立労組結成を呼びかける。
こうして数十名前後の社員が2つの組合に分裂する騒動となった。その後合同労組メンバーを排除して事態を完全収拾するのに5年を要したのである。

※成形工場(のちに北川化工本社も移動)




































